母の認知症を自覚した日!

目次

目まぐるしい変化の年に心に穴が開いたような出来事

2020年に入り新型コロナウィルスの影響で世界がガラッと変わってしまいました。

最初は何だろう?中国で都市封鎖?など、どちらかというと他山の石というのか他人事のような感じでした。しかし、パンデミックになってしまう速度が、自分たちが考える速度よりはるかに上回っていました。

なん百年に一回と言われるような新型コロナウィルスは、休むことなく、人類のスキを見てはじわりじわりと忍び寄ってきました。油断もスキもあったものじゃないというのはこのことかと思うほどの速さです。

そんな折、今年の3月に最愛なる母が他界をしてしまいました。いろいろなことが重なるものです。自粛もあり、環境が大きく変わったと同時に、母の死もあり、しばらくは放心状態でした。

気持ちがどうしても前に向かず、ブログなどが書けなくなってしまいました。

今まで毎日のようにやっていた音声FMの放送もできなくなってしまいました。

セミナーなどもできなくなってしまいました。

定年退職をして、長年の会社員時代にはできなかった、もっと母と一緒にいる時間を増やしたい、第三の人生は自分のやりたい起業にも挑戦をしたいと考えていた矢先の出来事~~

気持ちを整理するためにも、母の思い出話を今日はブログに書き残したいとパソコンに向かうことにしました。

コロナ禍での入院!

それはある日突然でした!!

私は起業家仲間の地元での交流会にあと1時間で行くために、準備をしていた夕方のことです。

母の様子を見るために部屋に行くと、様子が急に変になっており、黒い血を吐いておりました。

また水の中にいるようなゴボゴボとしたような音もさせておりました。

力ない様子の中でも意識はあり、母は絶対に病院には行かないと首を横に振りました。

しかし、目の前で見ている家族としては、そのようなことを話し合ってもおらず、苦しがっている母を目前にして、とても我慢ができるものではありません。

何とかしなきゃ、何とか楽にさせてあげなきゃ・・・

と思うものです。

側にいる家族とも相談をして、直ぐに救急車を呼び病院に搬送されました。

今考えれば、あの時に母の意思を尊重しておくのがよかったのかとも思います。

しかし、その場で目の前で苦しんでいる母を見た時に、そんなことができるのか?

と考えれば、今考えてもとても疑問であり、とても無理だった出来事だと思います。

ここは難しい話です。

それはある日突然にやってくることなのです。

緊急入院時は、2月でまだコロナ影響といってもそれほどでもない時期でしたので、病院も空いておりスムーズに入ることが出来ました。

それから3週間の間、看病をしますが、コロナの影響で家族の面会も禁止なのですが、重症患者は特別に毎日申請書を書いて、面会を許してもらえました。

毎日面会に行くと、最初の1週間で回復に向かった感じで、意識も多少は戻り返事くらいはできたりと家に戻れそうだなと思いました。

それから次の週からどんどん悪化をして、体中が浮腫んでしまい、何をしてもどんな治療をしても回復に向かうことはできず、2020年3月8日になったばかりの2時2分に息を引き取りました。

家族で交代で看病をしましたが、最後の日は私が一人で看取りました。

ドクターももう永くはないと判断をされたのか、母と一緒に夜も横で、小さなベットで看病をしながら泊まらせてくれました。

前日は妹が看病をしましたが、緊急のアラームなどは全然鳴らなくてぐっすりと眠れたと言っておりました。

しかし、私の泊りの日の前日は暦で言えば、「友引」といってその日に亡くなってしまうと、仲の良かった人を冥土まで引き連れてしまうという日になるため、お寺で長年暮らしていた母(父が僧侶でその奥さんだった)は、最期の最後の時まで、家族を思ってか、苦しいのに死ぬ時期までも判断をしていたのか?と、涙が出てしまうのですが、友引が明けての翌日の深夜零時あたりから、母に装着されている機械の緊急アラーム音が、けたたましく深夜の病院に響き渡りました。

看護婦さんが来て、アラームが鳴らないように設定を危険域まで低くしますが、それでも緊急アラームが鳴ります。

私は咄嗟に、息が浅くなりすぎだ、もう天国に召される時なのではないか?と自分なりに判断をして、家族にも最期を看取ってもらいたいと、真夜中でしたが、自分の判断で携帯で呼びました。

するとあっという間の出来事です。

見る見る間に、血圧、酸素量のすべてが急降下!!

ドクターが駆け付けましたが、そこで臨終を伝えられました。

家族が来た時には、もう間に合いませんでした。

母は90歳の大往生でした。

人から見れば長生きと言われるかもしれませんが、変な話なのですが、私は母は死なないと思ってしまっておりました。悲しすぎる時には涙が出てこないものと感じました。

母の認知症を感じた日

私は同居の母を介護をしながら定年退職後に起業をしました。

母と一緒にいたい、会社員時代には忙しくて母との時間が充分に取れない感じがしておりました。

ある日のこと、私は母に

「お風呂入ったの?」と聞くと、

「入ったから大丈夫、大丈夫」と答えます。

忙しさから、あまり気にも留めず、その母の言葉を信じておりましたが、ある日、何やらプ~~ンと風が吹いて私の鼻に母の体臭が匂ってきました。

あっ!お風呂に入っていないんじゃないかな?と感じました。

忙しそうにしている私に心配をかけまいと、もうお風呂に入ることさえも億劫で、自分ではできなくなっているのに、私への愛情で「大丈夫」と言っていたのではないかと思います。

洋服もたくさんあるのに、同じ洋服ばかりを着ています。

タンスを見れば、夏なのに冬物が入っていたり、山のように下着ばかりを購入して入っていました。何か変だな?

それから私は外での勤めではなく、母と一緒に介護をしながら家にいることを選択しました。

定年間際の出来事でしたが、自分もそんな年齢になったんだと思いました。

ひょっとしたら、母はもう随分前から認知症を発症していたのかもしれません。

しかし、私は忙しくて毎日が精一杯で気づいてあげることができなかったのかもしれません。

「忙しい」という文字は、人が心を亡くすという意味だということを改めて感じました。

それから、介護をしながらでも自分らしくできる仕事を選び、起業をすることにしました。

商工会議所などの研修や講演会などの時には、デーサービスに併設している施設にショートスティを事前にお願いをして、専門家に1泊お願いをして、綱渡りのような時間調節をしながら、仕事に穴をあけないようにしました。

なぜ、片田舎のお寺をやっていた母が関東に来ることに?

私の実家は、岐阜県の御岳山(おんたけさん)の近くにあり、当時人口が5000人くらいの村と呼びたいような小さな町で、祖父の時代から禅宗のお寺を運営しておりました。父は祖父が生きていた時には、中学校の先生と僧侶の両輪をやっておりました。

祖父が亡くなり、お寺は父の代になると、母と一緒に幼稚園経営や、おもちゃ屋さん経営などいろいろな経営をしながらお寺を切り盛りしておりました。

多分、今考えれば田舎のお寺なので、お寺だけでは行事などもあるし、経営が厳しかったのかもしれません。

しかし、父が私の結婚前に病気で亡くなり、母がお寺を任されることになりました。

母はどちらかというと、昭和一桁の昔の人なので父に依存をしながら暮らしておりましたからお寺の経営や、その他お寺の役員(当時は地元の名士の人たちで構成)の人たちとの折衝はとても苦手でした。

それにお寺ですから、ご本尊様をお守りするためには住職命令が要ります。

役員の人たちは、本山である京都の妙心寺に陳情を賜り、母に修行を実施するように伝えてきました。お寺を維持するためには、当然のことであり、もっともなことであります。

昭和初期の父に依存しながら生きてきた母にそんなことができるはずもありません。

母は跡取りとして男の子がどうしても欲しいと何人産んでも女の子ばかり、しかもせっかく男の子が生まれても10日あまりで保育器の中で亡くなってしまう不幸にも見舞われました。

母ができる最善策だったのかもしれませんが、寺を守るという立ちはだかる壁に、どうしてもそれ以上は前に進めないでいました。

ですから私には15歳も離れた妹もいます。最後のチャンスで、母が42歳の時に授かった子供です。

そんな状態で切り盛りをしていたお寺ではありましたが、ストレスから病気がちになりました。

私は田舎に様子を見に行ってみると、母と妹とで並んで病気になって寝込んでいるところを目の当たりにしたときに、これはもう限界と感じました。

私が関東に引き取って、お寺は兼務住職をお願いして、今までの代を整理整頓しないといけない時が来た。お寺の経営や運営が難しいと感じた瞬間でした。

それからお寺の役員会、役員回り、近隣のお寺の住職の皆さま、親戚縁者一同への状況報告と今後についての話をしました。

皆さまには状況をご理解していただけました。それで、関東の私の家に母と妹を連れてくる覚悟を決めて前に進みました。明日どうなるのか?などの、未来の保証はありません。

多分幸せにできるだろう、母を大切にしたい、楽をさせてあげたい、年の離れた妹には安心して結婚までさせてあげたいという自分のぼんやりした志だけで突き進んできました。

当時の田舎の中ではこんな出来事は前代未聞だったと思います。

噂になっていたとも思います。

何と言われてもいいと覚悟も決まっておりました。

それでも私は、今のままではお寺にも母にもよくないという感じがしていました。

不思議だったのが、小さいころからお世話になった近隣の住職の和尚さんたちへ1枚1枚手書きのお手紙を書くことにした時のこと~~

まるで何かが降りてきたのかの如く、ペンがスラスラと動いて文章になるのです。

まるで誰かが筆を支えてくれて、書いてくれているような印象です。今から30年弱の出来事ですが、今でも覚えているのが当時使ったこともないような文章がどんどん出てくる点です。

例えば「万感胸に迫る~~」なんて言う言葉は、使ったことがないのに、どんどん文章化されていくのです。

気づけば、一人の和尚さんに20枚近くのお手紙になっておりました。

そんなことから母と妹は関東に来ることになりました。

後悔のない人生を歩むためには!

(写真は、自宅の母が可愛がっていた猫のみーちゃん)

私は小さいころからお寺の行事やお参りに来る人が、和尚である父に人生のいろいろなことを相談する姿をみて育ってきました。

子どもの私には何のことかわからなかったけれども、和尚の父に泣きながら相談をする人々の姿を見て育ったわけです。

当時はコンサルティングやコーチングなんて言う職業はありませんでしたから、お寺は地元の人たちの人生相談、個別相談の場だったのかもしれません。

子ども心に人生とはなにか?

何のために人間は生きているのだろう?などと考えるようになりました。

そして小学四年生の時に「私は後悔しない人生を歩む!」と自分なりの生き方を決定したわけなのです。

あれから50年近くたちましたが、今でもその考えは変わっておりません。

これまでの人生の岐路に立った時に、「これをやることが後悔することなのか?しないことなのか?」で判断をして後悔しない人生を選んできたように思います。

今年に入りいろんなことが目まぐるしく起こり、まさに「変化の年」と言えるような年でしたが、このブログを書くことで、自分の気持ちも整理をつけたいと思います。

SNSも起業当初は毎日更新は大変だなと義務に近い感じで実施をしていた時期もありましたが、私が今回立ち直るきっかけを作ってくれたのが、SNSのフォロワーさんからの温かいコメントからでした。

人が人を元気にするものなんだと思いました。

コミュニケーションツールなんだと改めて感じました。

人とのつながりを大切にしたいと思いました。

これから介護をしながらお仕事をされる方や、人生の岐路に立った方、人生の転機を迎えた方もおられると思いますが、迷う時は信頼のおける経験者に相談をしたり、自分の直感を信じたりされるといいかと思います。

そして焦りは禁物です。 時間は何も言いませんが、本当に徐々に癒してくれて放心状態の私を立ち直らせてくれました。

母が他界してから、皆さんの励ましや、生徒さんの励ましで前に進んでこれました。

SNSはずっと続けていたので、こんなことまで書くのは変かなと思いつつも、苦しくて辛い気持ちも残っており、どうにも前に進まなくて、ありのままの気持ちを書くことにしました。

いろんな人とSNS上でコミュニケーションをとっている内に、徐々にコンテンツの話もできるようになりました。すると、文章もだんだん長く書くことができるようになりました。

その後、セミナーや勉強会も、オンラインにはなりますが、母の他界から半年後くらいから再開できるようになりました。1回目は久しぶりでしたので緊張をしましたが、2回目は母が側にいてくれるようで、オンラインではありましたが、ここまで立ち直れたと感極まり涙がこぼれました。

ずっとやってきた音声FM放送は昨日から再開をしてみました。 実に7ケ月ぶりでした。

足並みはゆっくりですが、自分のペースで徐々に進んでいこうと思います。

人が生きてきたことは、意味があり、人生を通していろんなことを母は教えてくれた気がします。

大好きだった母の納骨式も、早くやらないとと思いますが、コロナ禍と先日の台風の災害で、田舎に帰る道が寸断されてしまい、田舎のお墓に戻してあげられるのが、少し先になりそうです。

しばらくの間は自宅の仏壇において、生前の母に感謝のお参りをしたいと思います。

  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

一般社団法人JSIセカンドライフ・イノベーション協会代表理事及びJSIセールス・イノベーション研究所代表。
ケーブルテレビ業界シェアNO.1のJ:COMで、全国トップセールスとなり、部長に抜擢される。 営業第一線で活躍は勿論のこと、営業育成歴20年、どん底営業マンをトップセールスへと育成してきた多数の実績から、会社内では「営業マンの再生工場」と呼ばれる。
組織のマネージメントとして強い組織づくりも対応、定年退職と共に一般社団法人JSIセカンドライフ・イノベーション協会を設立し独立。代表理事に就任。 その後、お客様のご要望より、JSIセールス・イノベーション研究所を設立して代表を兼務。 独自メソッドの「エレガントセールス®術」を開発し、質問力の力で顧客の商品・サービス成約率倍増を推進。
巷に溢れる強引なセールス術ではなく、営業が苦手な人でも、踊るようにワクワクと商品やサービスが売れる「エレガントセールス術」は特に50代以上の起業家に好評を得ている。

目次